イベントに出た日、夕方のニュースでイベントの様子が報道されたらしい。テレビも持っていなかったので全く知らなかったが、街中で時々知らない人に声をかけられるようになった。
「一体なんだろう?」と訝しがっていたのだが、友人から「テレビ出てたね!」言われてやっと意味がわかった。
サンクトペテルブルグは治安はとてもいいのだが、海外で顔が割れていいことはあまりない。
街中で昼間から酒を飲んでる熊のような陽気な酔っ払いにビールを無理やり奢られた時は閉口した(飲むのはかなり好きだから良いのだけど)。
そんな喧噪も2週間後には静まっていた。
その後、しばらくして友人のエカテリーナ氏から「露日友好協会(サンクトペテルブルグ市の外郭団体)でイベントプロデュースをやらないか?」とオファーがあった。
実は日本にいた時に二足の草鞋を履いていた。音楽活動とは別にメディアもやっていて、某スポーツメーカーのオフィシャルカメラマンとして活動もしていた。
きっかけは手の故障だった。しばらくはリハビリで音楽の仕事は出来ない。これからは音楽と映像は切っても切れない関係性が生まれてくると予測していたので、どうせ仕事ができないならこの機に学んでしまおうと始めたのだ。
ライフワークは「戦争と平和」
奇しくもお蔵入りしていた長編が1本こちらに持ってきたパソコンの中に入っていた。
(続く)
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